十二国記「白銀の墟 玄の月」全4巻の感想。18年ぶりの続編も名作でした

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十二国記の新作「白銀の墟 玄の月」の1~4巻を読み終えたので感想をまとめた。

私は以前、朝の通勤電車で「東の海神 西の滄海」を読んでいたら、ページをめくるのに夢中で会社の最寄り駅を乗り過ごしたことがある。

「白銀の墟 玄の月」4冊は家で一気に読んだが、本作も電車で読んでいたら同じ失敗が繰り返された可能性は高い。

十二国記はどれを読んでもすばらしいが、18年ぶりの長編「白銀の墟 玄の月」も名作だったということです。

途中からネタバレあり。




直前に「黄昏の岸 暁の天」だけ読み返して大正解

私が十二国記を読んだのは2010年から2011年にかけてのこと(その後2013年に「丕緒の鳥」を読む)。

そのため「白銀の墟 玄の月」が発売された2019年秋には人名や設定など多くのことを忘れていた。

もはや覚えていたのは「黄昏の岸 暁の天」の最後で麒麟の力を失った泰麒と片腕を失った李斉が王のいない戴を救うために旅立ったことだけ、と言っても過言ではない。

「白銀の墟 玄の月」を読む前にせめて驍宗を捜すことになった経緯くらいは思い出さないと楽しさが半減すると思い、「黄昏の岸 暁の天」を読み返すことにした。


「魔性の子」「風の海 迷宮の岸」「華胥の幽夢」も再読できれば完璧だったが、「黄昏の岸 暁の天」だけでも読んで本当によかった。十二国記では人は里木から生まれることすら忘れていたなんて言えない。

脇役はほとんど忘却の彼方だったので、「黄昏の岸 暁の天」を読んでいなかったら「白銀の墟 玄の月」で霜元、英章、臥信、巌趙、正頼、琅燦が登場しても誰だっけと頭にハテナマークが並んで再会シーンの感動が目減りしただろう。

阿選も言われて名前を思い出したくらい。私は記憶を消す呪文でもかけられたのだろうか。いいえ、ただの物忘れです。

復習は大事だと実感。

ここから先は「白銀の墟 玄の月」のネタバレあり。


民の物語であり泰麒の物語

麒麟の常識を破る泰麒

角を切られて麒麟の力を失った泰麒。こんな状態で一体どうやって戴を救うのか、と初めて「黄昏の岸 暁の天」を読んだ時から気になっていた。

泰麒の打開策が麒麟という身分とハッタリのフル活用だったのは仰天したが、確かにそれしかないよなと。

麒麟は慈悲の生き物、麒麟の言葉は天の意志、という人々の常識に付け入る。しかも、角を切って驍宗を陥れて民をどん底にたたき落として放置しているにっくき阿選に「あなたが王です」と嫌々でも言ってのける。蓬莱育ちの麒麟の底力の底の見えなさ。

そして泰麒は麒麟の常識に疑問を投げかける。麒麟が人を殺せないことや、麒麟が王以外の人間に誓約できないのは意志の問題では? と。

実際、気の持ちようで王以外の人間にも叩頭できるし、人も殺せてしまうことが判明。

陽子が天の意志に疑問を抱いたのと似ているが、王である陽子は天の決まりから逸脱すると命に関わる。

一方、麒麟に関しては「~できない」の一線を越えても死ぬわけではないようだ。血涙に穢瘁と代償が大きいのでやりすぎたら死にそうだが。

「白銀の墟 玄の月」が民の物語であるならば泰麒の物語と言えるのでは

泰麒は自分のせいで戴にも蓬莱にも多大な犠牲が出たという罪の意識を常に抱え、鋼の意志で民の救済に尽力した。

ずっと気を張って、誰にも弱音や本音を吐けず、普通の人なら過労死するくらい大変だったはず。張運や士遜の相手も地味にストレスだったに違いないよ。

泰麒の一人称が誰に対しても「私」だったことからも、泰麒という個人は押さえ込まれ、努めて戴の麒麟として存在していた気がする。

白圭宮で泰麒が感情的になったのは正頼を助けようとした時くらいだし。

「白銀の墟 玄の月」は泰麒や李斉の話というより民の話で、だから為政者に振り回される民や、民の安寧の願いを叶えるため奔走する人々(軍人も道士も民である)まで隅々に視線が行き渡っているのだと思う。

しかし、民の声を具現化したものが麒麟ならば、「白銀の墟 玄の月」は泰麒の話とも言えるのではなかろうか。

こじつけもあるが、厳しい冬を乗り越える戴の民と泰麒の努力が重なるのです。

「黄昏の岸 暁の天」の「僕たちは戴の民です」という泰麒の言葉が蘇る。


ところで私は泰麒が麒麟に転変できたのは驍宗と目が合ったからだと考えている。

どこかの時点で治っていたのを隠していた、というのは琅燦か巌趙の独白に過ぎない。

ただ、セリフになっていればウソかもしれないと思えるけど、独白だと真偽の見極めが難しいところ。


その他のざっくり感想

チート驍宗

李斉がわずかな手がかりを頼りに文州をしらみつぶしに調べ、驍宗の所在地は函養山だとようやく突き止めたと思ったら・・・

驍宗様、自力で脱出!

しかも新王即位の発表後という絶妙なタイミング。悪いけど笑った。

貧しい親子による新月の夜の供物といい、都合よく表れた騶虞(すうぐ)といい、やっぱり驍宗様には天の加護がある。驍宗様が王です。間違いありません。

驍宗としゃべらなかった阿選

「白銀の墟 玄の月」が阿選を討たずに終わったのは別に構わない。

戴史乍書に書かれているし、延王が諸国の支援を取り付けたということは圧倒的兵力差ができて阿選はあっけなく討たれたのだろうと想像できる。

問題はそこではなく。作中で唯一残念だった点は阿選と驍宗が言葉を交わすことなく終わったことだ。

本作最大の敵同士が一言もしゃべらず終わるなんて。

と思っていたが、2人が敵同士と考えること自体が意味のないことなのかもしれないし、この期に及んで阿選が驍宗と話すことなんてなかったかもしれない。

阿選と驍宗の対立は「黄昏の岸 暁の天」で李斉や花影に噂レベルで語られるところが面白さのピークだった気がする。周りが阿選と驍宗のどちらが優れているか比べてあれこれ想像している時が面白いって残酷。

謎キャラ琅燦

名前が出てくるたびにふりがなを探してしまう。ろうさん。

琅燦は驍宗への忠誠心はあるが、王と麒麟をめぐる摂理に興味が優先して、その好奇心を満たすために阿選をそそのかしたという解釈でいいのか。

だとしたら戴の民が苦しむことになった責任は琅燦にもあり、「琅燦は敵ではないです」で済ませてはいけないと思うのだが。

だいたい琅燦が阿選に妖魔のこと教えたからヘンなハトみたいなのがポッポして魂魄が抜かれた傀儡が大量生産されたんでしょ。

二度と元には戻らないということは死んだも同然で、阿選による反民への誅伐の犠牲者の次に犠牲者が多い気がする。

とりあえずあんなに頑張っていた恵棟に何てことしてくれた。

琅燦が阿選をけしかけたことは誰も知ることがなく終わるのだろう。

ナイスキャラ耶利のご主人が本当に琅燦なのか疑問。


やがて終わる人生でやれることは

十二国記の魅力のひとつは、たくさんの登場人物を通して人生をどう生きるかというメッセージをくみ取れることだと思う。

「白銀の墟 玄の月」で私が最も心を打たれたのは4巻の最後にある去思の独白だ。

去思は鄷都が斃れた瞬間を目撃していたが、遺体を確認したわけではない。それでもその瞬間を見ていただけましなのかもしれない。鄷都が死んだのだと納得はしやすい。だが、戦いにおいて多くの犠牲は、目に見えない場所で起こるのだ。いつどうやって死んだのかは分からない。死んだ、と伝聞にせよ確認できた朽桟や余沢のような例はまだ救いがある。夕麗、朽桟の息子はただ姿を消した。そして――静之も。
生きているかもしれない。――生きていてほしい。
宙ぶらりんのこの気分を、生涯抱えていかねばならないのだろう。
(『白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記』 427~428P)

「白銀の墟 玄の月」では多くの人が死ぬ。

ちょっと名前が出た人だけでなく、李斉と深く関わった人まで容赦なく死んだ。

死に際が書かれた人もいれば、事後報告で死んだことが分かる人もいるし、行方不明とされる人もいる。

ふと、東日本大震災による行方不明者が約2,500人いることが頭に浮かんだ。

幸い被害に遭っていない自分にとってこの数字はただの数字でしかないが、身内の行方が分からなくなった人は、今も心のどこかで「生きているかも」という気持ちを抱えて生活しているのかもしれない。

そして犠牲者・行方不明者・生存者のどの立場であれ、これは決して他人事ではない。

自然災害、戦争、疫病など、自分の力ではどうにもならない現象がある以上、いつ何が自分の身に降りかかってもおかしくない。

そう考えた時に、李斉の「過去が現在を作る。ならば、今が未来を作るのだ」という言葉が強い意味を持つ。

今の行動が未来にどう繋がるかは見えないが、未来で後悔しないためには今できることを精一杯やって生きていくしかないのだ。

まあ、私は相変わらず日々無力で無意義に過ごしているけれど。

コロナウイルスの流行拡大が懸念される現状、私に今できることは十二国記をゼロから全て読み返すことかもしれない(現実逃避)。

おわりに

最後に語彙力のない感想で締めます。

戴の長い歴史の1コマと無数の民の人生をひとりで考え、ひとりで言語化した小野不由美さんすごすぎる。

新作が読めて幸せでした。
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