伊坂幸太郎『AX』感想。殺し屋・兜が陰キャにやさしく、家族について考えさせる

伊坂幸太郎 アックス レビュー アイキャッチ

伊坂幸太郎さんの殺し屋シリーズ3作目『AX アックス』。

前作の『マリアビートル』はかなりおもしろかったと記憶しているものの、覚えているのは悪魔のような中学生・王子が強烈だったことくらい。

1作目の『グラスホッパー』に至ってはまったく内容を覚えていない(槿や桃が登場しても「誰?」ってなった)。

それでも『AX』楽しかったです。単独で読んでもよさそう。


主人公の兜は殺し屋であり、文房具メーカーの営業であり、父であり夫である。

様々な顔を持つ兜の大きな特徴は、非道で有能な殺し屋でありながら、家庭では過剰なまでに妻の機嫌を伺うという恐妻家ということ。

殺し屋の緊迫感ある仕事ぶりと、コミカルな家族模様のギャップを描きながら、兜が家族を守るために仕掛けたものが最後の最後に明かされるストーリーが圧巻でした。

『AX』を読んで特に感じたことは、

  • 兜の言葉が陰キャにやさしい
  • 家族といえども知らない一面はあり、それはそれでいいじゃない

ということでした。

この先、ネタバレあります。

陰キャに刺さる兜の言葉

人を殺すことを仕事としてきた兜は、他者との交流を避けていたため友達がいない。

奇跡的に友人と呼べるものができることがあっても、その友情は不運なのか職業柄なのか長続きしない。

兜に友達がいない事実は自他共に認めることで、息子の克巳に「自分の友達のことを考えていた」と話すと「親父に友達、いるんだ?」と返されるほど。

そんな兜は、友達の有無や社交性で人の価値を測らない。

兜が出会った珍しく気の合う知人が、自分は真面目だけが取り柄で、社交的ではなく暗くてぱっとしないと漏らしたことに対し、兜はこのように返している。

「ぱっとする仕事って何ですか。暗いというのは、単に、静かに日々を楽しむことができる、ということですよ」明るい性格です、と自称する人間がえてして、他者を巻き込まなくては人生を楽しめないのを兜は知っている。

暗いというのは、誰にも迷惑をかけず静かに日々を楽しむことができる、そういう人なのだと兜は語る。

なんてすばらしいとらえ方だろう。

陰キャ傾向の自分に兜の言葉がズブズブと刺さる。

連絡を取り合う友人が少ない、飲み会で空気になる、大人数でワイワイするより引きこもっているほうが好き。

そういった自分の暗いと思っていた部分が、兜に全肯定されたようで、少しだけ人生に前向きになれる気がした。

家族でも知らない一面がある

兜はベテランの殺し屋であり、法に背いて多くの命を奪ってきた殺人者。

兜が妻や息子を大切に思っているのと同じように、兜が殺した人にも大切な人がいる。

作中に被害者の視点は一切出てこないものの、フェアであることにこだわる兜は「自分が今までにやってきたことを考えれば、生き延びようとするのは、この上ない我儘」だということを自覚している。

兜の視点で兜の考え方に触れていると、兜がとてもいい人のように見えるけれど、決してそうではないのだ。

しかし、この作品で描かれる兜、つまり私の見ることができる兜は、多少悪そうな人は手にかけているけど、数少ない友人を思いやったり家族の不幸を何よりも嫌ったりする兜でしかない。

それは兜の息子、克巳から見える父親の姿と似たようなものだろう。

克巳は兜の秘密に迫りはしたが、兜が殺し屋だという事実までは知ることがなかった。

兜は自分の秘密を守り抜き、克巳は父親の父親としての姿だけを思い出に残している。

克巳が父親の裏の一面を知ったら、克巳は今までどおり父親に親しみを感じられただろうか。

そんな疑問は抱いたけれど、人は他人のことを完全に理解することはできない。

ある人物が克巳に「君のお父さんは、君の父親です。ただ、それだけです」と言うとおり、私たちは自分の見える範囲でしかその人を判断するしかなく、それで誰かに迷惑がかかるのでなければそれでいいのではないか。

私もきっと、自分の父親の知らない一面がたくさんある。

家族に内緒で不動産を持っている、とかならまだしも、もしかしたら秘密の仕事や秘密の愛人や秘密の借金がある可能性だってあるかもしれないし、万が一というか億が一そうだったら私はそんなこと知らないでいたい。

だから、克巳は兜が人殺しだと知ることがなくてよかったのだと思う。

家族にも伝わっていない気持ち

人は他人のことを完全に理解できないという点で、本作でおもしろいと思ったのは、兜に対する妻と克巳の思いが意外にも深かったということが後々明かされること。

兜視点での前半は、兜の妻は兜にあまり関心がないように見えたし、克巳も父親と話がはずむわけでもなく、どちらかというと淡泊な関係なのかという印象さえあった。

しかしいざ克巳視点で物語が始まると、兜の妻は兜を失って心療内科に通うほど心にダメージを負っていたし、克巳も父親の死因を探るためにやれるだけのことをやり、時には父親のことを思い出して涙を流すこともあった。

この2人の姿を兜に見せてあげたいと思う一方で、兜がいかに家族を大切にしていたかも、妻と克巳は気づいていないのだろう。

家族といえども人間関係とはそういうものかもしれない、お互い伝わっていない気持ちがたくさんあるのだ、そう思わずにはいられなかった。

幸せをどこに見出すか

終盤に、兜がいじめられていた少年を助ける場面がある。

友達がいなくてとつぶやいた少年に兜は、自分にも友達がいないが恵まれた幸せな日々を送っている、と堂々と答える。

友達がいなくても、大切な妻と子供がいれば兜は幸せなのだ。

兜が穏やかでいられるのは、あくまで妻と息子に危害が及んでいないからで、もしも兜より先に死んだのが兜の妻か克巳だったら、この物語はえらいバイオレンスな復讐劇になっていたと思う。

それはそれで見てみたかったけれども。

じゃあ友達がいない、かつ家族と不仲、あるいは家族を失ってしまった人はどうすればいいのか。

何に幸せを見出せばいいのか。

他人をよりどころにしない幸せの在り方はあるのか。

大切な人より先に死ぬことは、ある意味気楽なのかもしれない。

ひとり残されたときにどう生きるのか、そういうことも考えないと……と、もはや本編の内容とは関係のない感想を抱いたりもした『AX』でした。

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